この文面はあなたを否定する意図で書いていないのでそのつもりで読んで欲しい。そして、あなたが今後日常生活の中やBlogを書く際に活かして貰えれば、という意図で書いている。
ちなみにここで使っている「盲目」という言葉は差別的意図を含んでいないのでその旨受取って貰えれば嬉しい(^ ^)。
僕はこのBlogを始めて2年半になろうとしている。マイベースに取組んでいるうちに様々な方に読んでもらって良い出会いを沢山した。そして、その事に心から感謝している。
しかし、そんな中でいつも様々な内容を読んだり聴いたりしていて恐ろしくなって来る事もある。それは物事に対して盲目的になっている言葉を読んだり、聴いたりしたとき。残念ながらそれがプロでもそんな事がある。
Macユーザがどうだ、Appleがどうだ、Windowsユーザがどうだ、映画マニアがどうだ、オーディオマニアがどうだという話ではない。
他人の価値観を感じ取らず、自分がどう感じているのか自身の内側を見ずに(過去の体験等から生まれた価値観の枠組みの中から)差し出された言葉に恐ろしさを感じる事があるのだ。
このBlogでは頻繁に「他人の価値観が自分の価値観と違うのは当たり前」と書いているが人というものは恐ろしいもので日常生活の中ではこのことを「無自覚」に日々過ごしている。
この世界には答えの無いモノ、事柄の方が圧倒的に多いのに「○○はこういうものだ」「○○は違う」という言葉が頻繁に見聞きされる。
そこで発っせられている言葉は本人にだけ視点が向けられていて、言葉が発っせられた向こう側にいる「他人が含まれていない」様に感じる。そして、その状況を僕は「盲目的」だと感じている。
これを平たく言うと自己満足なの「かも」しれない。そして、僕は今自身が書いているこの文面も自己満足なのではないかと自分が恐ろしくなって来ている。
繰り返すが自分が他人に与える影響を感じ取らずに自身の内側にある価値観から来る言葉を発する事が盲目的なの「かも」しれない、と僕は感じ取っている。
だから僕はいつもこう書く様に心がけている「○○と感じている」「○○なのかもしれない」と。そう、あくまで「わたしはこう思っています。感じています。」と相手に送るメッセージとして書く様に心がけている。
ちなみにこのことを”I Message”という。反語は"You Message"で、これは相手に指示、命令するメッセージになる。
これはあなたを見下している意図はないのでその旨で受取って欲しいが、あなたが言葉を発する時はまず「自分は言葉に無自覚だ」という立ち位置に立ってみては如何だろうか??
その状態で自分の内側に感じている事(自分は相手を褒めたいのか、相手を手助けしようとしているのか等)を意識しつつ相手に向かって言葉を発してみると良い「かも」しれない(^ ^)。
そして、それを”I Message”として発する事が出来れば、あとは相手の受取り方次第となる。(当然ながら自分が伝えたメッセージの中身が良い意図か、悪い意図かで結果は違う。悪い意図だと良い結果は現れないだろうねぇ(-_-;;;)...)
感じる力は凄いと僕は「感じている」。考えていても現実世界には何も起こらない。行動して現実に表して、感じてみなければ「事」がどうなるかは分からない。
言葉はあなたが想像している以上に深く深く人々に多大な影響を与えることがある。だから僕は自分が発する言葉を意識するのはとても大切な事だと感じている。
そして、言葉を発する前に自分自身の内側を感じ取ることが大切なのだと感じている。自分は今、何かを他人に教えたいのか、誰かを応援したいのか、誰かを責めた立てたいのか、と内側を感じ取るのだ。
あなたも世の中に起こっている事を感じてみて、そして、自分の中で沸き起こっている事を感じてみては如何だろうか??もしかするとこれまで以上に活き活きとした言葉を発する事が出来るかもしれない(^ ^)。
(下記の参考リンク先はやり方として読まないで参考程度にね(^^;;。)
参考リンク
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